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読書感想文・メンタルヘルスについてのあれこれ等。「何者でもない」者の日々の憂い

「教養としての『世界史』の読み方」本村凌二著

読書感想文…教養・自己啓発

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 装丁・タイトルの分かりやすさと、帯で踊っていた「養老孟司氏推薦」の一言で読むことを決めた一冊。

 英国のEU離脱・トランプ氏の大統領当選などの「異変」により、ここのところ史学ブームが来ているように思える。少々おかたい本を取りそろえるお店では、村上氏の新作長編小説を圧倒する勢いで史学書や地政学書、というかそれらの入門書の類がずらりと並んでいる。

 養老氏と言えば、平易な解剖学や脳科学の書、ひと昔前は「バカの壁」というヒット作で社会現象も起こした御仁だ。自分が氏を敬愛する理由は、知識の豊かさや著作の読みやすさなどではなく、大衆が求めているものを徹頭徹尾見て見ぬふりをして自由に語る姿勢にあるのだと思う。

 そんな養老氏がめずらしく教養本などを薦めているものだから、読むしかなかった。

 

 ざっくりとした解説をすると、これまで読んできたユヴァル氏やマクニール氏の史書を、日本人視点で安易に・読みやすい行間で書き取った印象のある一冊だった。なおかつ、国内の教科書ではほとんど解説されていない重要な出来事などを網羅しつつ、

 「歴史を学ぶ理由」について迫っていく。

 

 本村氏はローマ史を得意とする研究者で、本著作を含め、ローマ建国・衰退史を軸とした叙述をする。西洋の世界観というのは、ローマ盛衰史とギリシアの再発見にあると世界中が認めている今、氏の語り口は貴重なものだろう。

 あわせて言えば、民族移動や宗教・哲学などの勃興について、日本人向けに平易に述べられる日本人研究者というのは極めて少ない。ワールドベストセラーと言われている史書を読んでみても、いまいちピンとこないまま内容を忘れてしまう読者も少なくないのではないだろうか。

 そういったことを念頭に置くと、この本は「有名な世界史書を読む前に、まず読むべき一冊」と思える。

 

 

 この先は極めて偏った私見となる。

 本村氏は私のような――以下のような意地悪な物言いをしなかった。

 

 「神という高次概念が民族結束を促している西洋世界の問いに、日本人の倫理観を『武士道』というなんともそれらしい言葉で虚飾して説明した」こと。

 これに、今日の見通しの暗さの元凶が眠っているように思える。

 

 武士道は確かに大絶賛された。いわゆるクールジャパンとやらの、先駆けとなったフレーズかもしれない。しかし所詮は詭弁で、日本人だって「誰かが決めた律法」に従順に生きているだけだし、ただ少しローマ人的真面目さが備わっていただけに過ぎない。我々を縛るルールを、西洋では明確に「だれそれ」「神」と言っているだけまだマシだ。我が国では昨今色々な不祥事が起こる。今まさに真面目さが損なわれつつあるけれども、そうなったら我々はどんな生き物になるのだろうか。

 結局のところ自分たちは、牧者そっちのけで群れの先頭についていくことを美徳とする、ただの羊の群れではないだろうか。群れには実はいろいろなカラーリングがあるのに、白のなかにグレーが混じっているだけでヒステリックに攻撃して追い出す。

 「誰が律法を決めているか分からない」からこそ、

 「違う律法で動いているかもしれない人」に過敏になってしまうのだ。

 それが日本人的イジメの構造であろう。

 

 併せて言えば、われわれにはどうも鉄血宰相ビスマルク氏の史学観が正確に伝わっていないように思える。いや、理解していたとしても、他者をあざ笑い蹴落とすことを目的として行動しているのではないだろうか。

 本書では原文と正確な翻訳が載っているので、是非読んでほしいと思う。

 

 以上、本書の紹介と感想、私見について。

 おわり。

絵を描く環境について:ほぼ自分用の備忘録

備忘録

 アイデアは大量に温まっているのに、それを生む道具がない。

 はじめは「今はデジタル化の時代。手っ取り早くデジタルペイント道具をそろえよう」などと考えた。

 デジタルの利点を挙げ連ねてみると、

 ・ほぼ初期投資のみで経済的

 ・工程の一部を省略または短縮できる

 ・ワークスペースの節約にもなる

 等々。枚挙に暇なし。

 

 とはいえ、その初期投資というのがバカにならない。

 ひとまずペイントツールの体験版をマシンに落として、スキャンしておいた過去の作品の加工などを試す。

 

 …こりゃあ、無理だ。筆の動かし方から分からない。ツールの使い方のもとのもとから勉強しないといけないなんて、とんだ本末転倒だ。そう思い始めると、デジタルペイントのデメリットも浮かんでくる。

 

 ここのところ、マンガ作品の数が飽和状態というか、新作の出るペースがやたらと早い。読んではみるけれど、何か心魅かれるような絵(台詞回しや構図を含めた総合的なもの)が挟まってないと、読み終えた瞬間に作者の名前すら忘れる。あれは何が原因だろうかと考えながら、家電店でペンタブレットを運筆してみる。

 すると、よく観察すれば早々に気付いたであろうことが浮かんでくる。デジタルで描かれた線には、揺らぎがない。率直に言ってしまえば無機質なのだ。これこそ、自分のような初心者には難しいツールではないかと、そう思った。

 

 ここまで書いていて、前にもおなじことを書いたような気がするけれども。

 

 ここからが備忘録というか、結局書きたかったことである。

 特別誰かに読んでほしいと思うような内容ではない。本来は手帳のスキマに綴ってよしとすべきことだ。しかし、随分と悩んだことなので、ここはどうかご容赦を。

 

 

 

 

<モノクロ原稿用の画材について>

 

つけペン

タチカワのGと丸ペンが安定。劣化防止のためにペン先手入れはこまめに。

 

ミリペン:

コピックマルチライナーが入手しやすい。SPという高価なシリーズも購入してみたが、妙に芯が柔らかく感じて合わなかった。1本200円で流通しているものを消費していくのが吉か。

 

定規:

最初に金属定規を買って失敗。クリアタイプでないと、平行線が非常に描きづらい。これは解決済み。

 

墨と修正液:

マンガ用耐水性インク・ポスターカラー・水筆で解決。筆ペンと題された筆の良さに気付く。

 

原稿用紙:

吝嗇になってはいけない。ちゃんといいものを買う。

 

スクリーントーンとナイフ:

トーンはとにかくお金がかさむ。積極的に節約すべきだ。

ナイフについては、当初はモデラー用のデザインナイフを使用していた。が、削りにくい事この上ない。取り急ぎコンビニで購入したオルファのカッターを、惜しみなく刃を折りながら使ったほうが楽だった。

 

あと欲しいもの:

メンディングテープ/マスキングテープ

予算に余裕があればトレース台

 

 

<カラー原稿>

 筆を置いてから7年以上経過している。水彩と油彩両方の道具を取りそろえていたが、母に売られてしまった。遺憾である。

油彩技法でないと描く自信がないため、ひとまず代案としてアクリル絵具の使用を検討。

最低必要なものとしては、

 

アクリル画具(要検討、とりあえず基本色だけあれば)

・ナイロン筆(平筆・丸筆。あとは必要に応じて)

・使いやすい筆洗い

・ペーパーパレット

・水彩用ペーパーブロック

ジェッソ

・遅乾剤(グラデーションメディウムという商品名らしい。これがないと自信がない)

 

こんなものか。紙やらはともかくとして、上3点はこだわらないといけない。

予算1万円~1万5千円。

 

 

以上。

信仰は嗤う

自省録

石打人のコート持ちが宣教をし始めた。

彼らのうち幾人かは、危惧する人に屠られたが

300年弱の時を経てある国が信仰を始め、爆発的に信者が増えた。

神の名の下に聖地の再征服をするため、数千人を殺めた。

神の名を巡って争い、数万人が殺しあった。

神の教えを巡って争い、勢力圏を奪い合う中で、やはり数万人が死んだ。

神の名の下に種の多様化を否定し、ひとつの家が断絶した。

神の名を否定した者もいたが、やはり滅亡した。

「神の祝福のない者達だから」と正当化し、肌の色の違う人の生死を家畜同然に掌握した。

神の名の下でフロンティアが勃興し、その影で数千人が死に絶えた。

神の名の下に殺しあうため、科学研究を始めた。

核の炎で7万人が一瞬で消滅したとき、人々は神に感謝した。

神の名を叫んだ者によって、飛行機は無慈悲に突撃した。

大統領は「神の名において」アラブへと派兵した。

最後にそれを非難したのは、今まで何百人といたうちのたった1人の、最高位神職者だった。

 

彼らは60億人のうち37パーセントを占める。

彼らの先祖が殺め、殺めあった人間の数は、何百万人だろうか。

この国で「史上最悪の宗教テロ」を起こした彼らと何の違いがあるだろうか。

それにひきかえ、不殺のイデオロギーの中で生まれた幾つかの神は、人を殺めただろうか。

 

不可視の存在への信仰告白を聞いて、眉をひそめたり嘲ったりする人々に聞きたい。

私たちを守る資本主義・民主主義・平和主義というイデオロギーが、それらの「神」の名の下に人を傷つけ殺めないという保証は、どこにあるのだろうか。

 

私は、世界史上もっとも多くの人を殺めた神の信徒だ。

そして、その神の信徒は世界的に見ればマジョリティだ。

 

イデオロギーと人は互いを支配し合い、競争の正当化と殺戮の衝動へと駆り立てる。

パンがあっても人は死ぬ。

財布のなかがどうであれ人は死ぬ。

祈っても死ぬ。

兵器や凶器をもたずとも、人を傷つけ殺すことができる。

私たちは等しく過ちを犯し、犯す可能性がある存在だ。

どうして誰も認めようとしないのだろうか。

「サピエンス全史」上下巻 ユヴァル・ノア・ハラリ著

読書感想文…教養・自己啓発

 近年は世界史・日本史の学習に熱が高じている。

 本著作は、ジャレド・ダイアモンド氏やマクニール氏の世界史書に並ぶ名著だと自信を持って言える。

 

 まずはじめに断っておきたいのは、この本は「あらかじめ世界史の歩みを義務教育レベルで理解していること」を前提としているのではないか、ということだ。読み進めていくうちにその疑問は解けたが、現代まで続く宗教・戦争など、人間の歴史とは切っても切り離せない「出来事」の大まかな流れくらいは頭にいれておきたい。

 

 あわせて、この本は史実を列挙する本ではない。

 著者が書き表すにあたって、軸とした考えではないかという一文がある。 

「歴史を研究するのは、未来を知るためではなく、視野を広げ、現代の私たちの状況は自然なものでも必然的なものでもなく、(中略)想像しているよりもずっと多くの可能性があることを知るためだ」

 ハラリ氏はこの考えに基づいて、愚かしくも「サピエンス(賢い生き物)」と自称した私たちの誤った選択、謎に満ちた転換期、判然としている革命の理由などを淡々と解説している。しかし、この解説にあたって難しい用語や専門家しか知り得ない単語を羅列しているのかというと、そうではない。

 

 たとえば、「信用(クレジット)」の概念が誕生についての解説も、中高生であっても理解できる平易な数学的例えで解説をしてくれている。数学的例え、と私は言ったが、これもまた著者が徹頭徹尾本著のなかで重視したものだと思う。

 統計学的データを改めて洗い直すことで、ホモ・サピエンスの不可思議な行動と選択を提示し、読み手に考える余地を与える。

 

 本というものは「それだけで完結することはあってはならない」と常日頃思っているが、それを十分に認識させてくれる一冊であった。

 

 

 おわり。

嫌煙の風潮について

自省録

 先に述べておくが、私はライトスモーカーである。

 ライトと付け加えた理由は、喫煙のタイミングや場所に著しくこだわっており、常習化しているとは言えないからだ。実際、1ヶ月あたりの喫煙費は、千円にも満たない。

 

 煙草の人体への影響が発見され啓発されるようになってから、分煙化が進み、嫌煙家なる人々の声もいささか大きくなってきたように思える。スモーカー本人よりも受動喫煙者のほうが受害が大きいとの所見が出てから、喫煙者そのものを排除・あるいは考えを改めさせようとする動きまで出てきている。過激な嫌煙家の出現はとどまることを知らず、喫煙者を不可触民とみなす人も多いようだ。

 私は平成の初期生まれのものだが、「この短期間で、こんなにも世論は変わるものなのか」と驚きを禁じ得ない。

 

 煙草には古い歴史がある。

 (ここで筆者の知識に誤りがある可能性を記しておく)西洋の探検家がカフェイン飲料を発見するはるか前からそれは存在し、集中力の向上や陶酔の効果が認められ、多くの頭脳労働者・あるいは特権階級の者が嗜んだという。西洋による地球の発見以降も、ときに非常時には「煙草は通貨の代わりにすらなった」。かのアウシュビッツの体験記や、多くの獄中記などでそれは語られている。

 煙草は少なからず、鬱屈とした社会の中でひとときの緊張緩和を得るための限られた手段であった。ゆえに特権階級がそれを独占することも、あるいは貨幣社会が破綻している場所の人間らしい営みにも役に立ったのだ。

 

 いま「煙草が否定されつつある」のには、医学的見解の他に、明確な理由があると思う。

 人間の社会がより緊密になり、抑うつ気分に沈んだときの自己救済手段が矢継ぎ早に発見されていっているからだ。ときにはサルベージという手段であったり、あるカリスマ的人物の体験であったりする。

 人が生きるために、「ほんの5分ほどの間の緊張緩和」が必要なのは、数千年の間変わってはいない。ただ手段が多様化したがために、旧来の(しかも近代科学で悪の側面まで認められた)方法に依存する人種が淘汰の過程にあるのだ。

 しかし、煙草の真価もここで認められるべきだし、ただ闇雲に攻撃するのはいささか「人類の悪癖」とも思える。

 

 先にも述べたが、煙草は「長年効果を認められ続けてきた」という実績に真価がある。

 煙草を吸うという行動は、それそのものを意味深なワードとして使うことができる、すなわち疲労のジェスチャーになっている。

 銘柄を選ぶ・吸い方を選ぶ・吸うシーンは?

 その行動ひとつひとつに「人類が体験してきた歴史のなかで得た意味」が含まれている。

 今ある瞬間リフレッシュの方法のほとんどが、まだ歴史的に浅く、主観・客観ともに「その行動にどのような意識が潜んでいるのか」という裏付けが曖昧だ。対照してみると、スモーキングという行動には体験の再体験、自身の状態の伝達、そして歴史的に認められてきた本来の効果と様々なエッセンスが含まれているのだと思う。

 一般に嫌われている喫煙者の匂いや行動、あるいは携えている喫煙具に、私はそういった深みのある色を見つけてしまう。

 

 改めていうが、私はライトスモーカーだ。

 喫煙席が用意されていても、食事処では喫煙しない。カフェでは、専用の喫煙ルームが用意されている場所でしか吸わないし、香りケア用品を使用してから禁煙席に戻る。自宅ではベランダか窓の側で吸う。部屋は高層階にあるので、周囲の人に影響を与える心配はない。

 喫煙するほどでもなしと判断したときには、コーヒーで済ませる。

 

 新しい時代に適応するため、遺産を捨てる。そうするしか生き残れないのだ。

 それが私たちの悲しい性だと思う。

今後の絵の練習方針

自省録

 突然だけれども、自己表現の一手段として、絵を上手く描きたいと思っている。色々と練習しているものの、道具から見直したり調整をしたりする段階のようで、思うように進まないのが現状だ。

 

 絵を生業にしている同母妹に聞いたところ、単純なモチーフやパーツをしっかりと描くところから始めた方がいいらしい。自分の絵を見ていても、

 ・身体に拘りすぎて、小物や顔のパーツがおざなりになっている

 ・線がきれいにまとまらない

 

 など、反省点はいくつかあるように思う。

 

 そこで、しばらくは

 身体や無機物のデッサンをしながら、人間の頭部を魅力的に描けるように強化していこうと思う。

 ちなみに、最近の絵。

 

 

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発見と自省…1

自省録

 まずは「言い訳」からこの話を始めようと思う。

 以前の記事でも少し触れたが、私は精神・物質両者において極貧の家庭に生まれた。

 成人としては甚だ未熟なまま社会に出た私は、数ある先人の書を読み解く・知識人に倣うといった方法でしか「中産階級の人と同等の文化人」にはなり得なかった。例を持ち出すなら、社会人として生まれてはじめて会食に誘われた時、チェーン店のパスタを食べるのにナイフとフォークが出てくるのを見て戸惑うほどであった。

 今ではもちろん、そういったことはない。自分の所属する集団で子に教育を施す補助をしたり、識者と対等に話したり、持ちうるスキルで高単価の仕事をしたりすることも可能だ。もちろん、儀礼としての娯楽…会食、冠婚葬祭への出席、そういったときも迷わずに行動ができる。

 ただし、そこに至るまで「血反吐が出るほどの」苦労をしたのは述べておきたい。

 その苦労ゆえに心身ともに病み、療養中であることも付け加えておく。

 ここまでが「言い訳」の内容だ。

 

 

 「過去の自分と同じ闇路を往く人と、悩みを共有し、成熟するための支えになる」ことが一つの夢である。それが表現活動であってもいいし、実際にひとりひとりに接しながらの介助業務でもいい。ちなみに、この真意を知らないひとから散々嘲笑われ、狂気を疑われた。

 

 ここからが本題である。

 私は最近になって、自分のなかに宿る重大な欠陥に気付いた。

 

 近年になって問題視されるようになった、若者たちの未成熟さ・あるいは年長者からの不当な扱いなど。遠目に見ると「私の経験」から語れるように錯覚するが、近くでそれに触れると「決して私とは相容れない」ということに気づく。

 

 彼らには不完全であれ完全であれ、両親がいる。

 彼らは不完全であれ完全であれ、友人・知人という細いネットワークに結ばれている。

 彼らにはテトラグラマトンで表す何かでなく、可視できる信仰の対象がある。

 

 それは、社会に未熟児として放り出されたときの私とは状況がまったくことなるのだ。端的に言ってしまえば、私はそれらの条件を何一つとして持っていなかった。自分の名前ですら仮称にすぎなかったことがある。

 それなのに、彼らは飢えを訴える。

 愛の飢え・知識の飢え。

 

 それは、私の心中にいまだ存在する未熟児の神経を逆なでするものだった。

 「なぜ私より恵まれた環境にいるのに、それを便利に使うことをしないのか」

 「なぜこの人たちは『言い訳』しかしないのか」

 

 つまりそれは簡易な憎悪であって、信念の表層にある「彼らを救いたい・寄り添いたい」という気持ちとは相反するものなのだ。私の宗派では妬み・憎しみという罪であり、贖いを求めるべき原罪のひとつである。

 

 薄々気づきながらもなるべくそれを「隠し」ながら、問題を抱える若者たちと触れてきた。だが露見すべきときに、露見するらしい。「あなたは私とは違う」と宣告される。巧みに隠せばそれを暴かれ、隠さずに話せば「自分とは区別すべき生き物」だと思われる。

 つまり、私は未だ自分の信念に能わず、未成熟児のままなのだ。

 

 外国人の友人たちは、何故か私の信念を「完全に」理解してくれる。ゆえに、第二言語でしか表現できない自分の考え方も育ってしまった。なぜ彼らはわかってくれるのだろうか? 彼らは史上、常に外敵との闘争や内紛に晒されてきたし、それは一個人のなかにも起こり続けてきたからであろうか。

 

 

 とにもかくにも、私は一度信念を捨てようと思う。

 自分の行動や精神を座敷牢に入れて、まだ色んなことを学び続けようと思う。

 

 おわり。