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Song-2-Song

読書感想文・メンタルヘルスについてのあれこれ等。「何者でもない」者の日々の憂い

仮想の死

自省録

 ネットゲームにまつわるアカウントや痕跡を、全て消した。強いて言うなら、このブログのアドレスに名残が残るばかりである。

 

 思えばいろいろなことがあった。

 少なくとも、楽しかったことよりも、辛い・苦しい・悩ましいことのほうが大きかった。そのうちに気付いた。

 

 昔の「インターネット」にある現実は、ここでキーを叩いている私とは連続しない、壁や通路で隔てられた空間だった。けれど、この時代では「いま」のなかに「ネットという現実」が内包されている。

 ゲーム内アバターがコミュニケーションツールの併用を併用するようになると、それはもうアバターなのではなく、私という肉体の外部装置、男性に例えるなら生殖器なのだと思う。

 そして、危機は訪れる。

 

 我々の現実全体をさらに包み込んでいる社会は、一見すると自由で平等だ。でもそれは、立て看板が掛かれた弱弱しい字面に過ぎない。GHQのひとりがタバコ片手に書いたあらゆる自由の本質は、我が国の現実には根付かなかった。

 真の自由とはなんだろう。考える。

 ネットフリックス版のデアデビルで引用された、良きサマリア人という例え話がある。身ぐるみ剥がされ満身創痍の旅人のかたわらを、2人の信心深い人がゆく。最後に通りかかった3人目の、先祖の罪を負うサマリア人が、彼を助ける。

 

 …これは不適切な例え話だったかもしれない。この国を覆う現実だと、自由は

 「自分の許容できないもの、自分の手に負えないものを徹底的に無視する権利」

 と解されているように私は思う。しかし、それは所詮、砂上の楼閣だ。

 つまるところ大前提として、世界市民・全世界を結ぶ肉体の外部装置の主として生きるには「誰も無視されてはならない」のだ。あわせて、内心、全員がそのことに気付いている。そして誤った解釈からくるフラストレーションを、匿名という仮面の下から「他人の自由を攻撃する」という方法で我々は発散しているのだと思う。

 この、怒りと嘲りに満ちた世界を、私はネットゲームを通じて見てしまったんだ。

 

 

 いま、現実と呼ばれる場所でも、ポピュリズムナショナリズムの静かなうねりが起きている。黴臭く誤謬の多い「自由」が蔓延し、人々が暴力的になった徴なのではないかと私は思う。

 

 私は二度とインターネットのなかに「自分の外部装置」を築くつもりはない。世界を憎み・不満を覚えながら生きる事に何の益もないし、目をつむって夢想の世界で生きるのが、ちっぽけな自分にはふさわしい。

 誰かが革命を起こすなら、と思う。

 何人かが死ぬかもしれない。でも、革命が起きるなら、どんな世界になるのだろうか。