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Song-2-Song

読書感想文・メンタルヘルスについてのあれこれ等。「何者でもない」者の日々の憂い

発見と自省…1

自省録

 まずは「言い訳」からこの話を始めようと思う。

 以前の記事でも少し触れたが、私は精神・物質両者において極貧の家庭に生まれた。

 成人としては甚だ未熟なまま社会に出た私は、数ある先人の書を読み解く・知識人に倣うといった方法でしか「中産階級の人と同等の文化人」にはなり得なかった。例を持ち出すなら、社会人として生まれてはじめて会食に誘われた時、チェーン店のパスタを食べるのにナイフとフォークが出てくるのを見て戸惑うほどであった。

 今ではもちろん、そういったことはない。自分の所属する集団で子に教育を施す補助をしたり、識者と対等に話したり、持ちうるスキルで高単価の仕事をしたりすることも可能だ。もちろん、儀礼としての娯楽…会食、冠婚葬祭への出席、そういったときも迷わずに行動ができる。

 ただし、そこに至るまで「血反吐が出るほどの」苦労をしたのは述べておきたい。

 その苦労ゆえに心身ともに病み、療養中であることも付け加えておく。

 ここまでが「言い訳」の内容だ。

 

 

 「過去の自分と同じ闇路を往く人と、悩みを共有し、成熟するための支えになる」ことが一つの夢である。それが表現活動であってもいいし、実際にひとりひとりに接しながらの介助業務でもいい。ちなみに、この真意を知らないひとから散々嘲笑われ、狂気を疑われた。

 

 ここからが本題である。

 私は最近になって、自分のなかに宿る重大な欠陥に気付いた。

 

 近年になって問題視されるようになった、若者たちの未成熟さ・あるいは年長者からの不当な扱いなど。遠目に見ると「私の経験」から語れるように錯覚するが、近くでそれに触れると「決して私とは相容れない」ということに気づく。

 

 彼らには不完全であれ完全であれ、両親がいる。

 彼らは不完全であれ完全であれ、友人・知人という細いネットワークに結ばれている。

 彼らにはテトラグラマトンで表す何かでなく、可視できる信仰の対象がある。

 

 それは、社会に未熟児として放り出されたときの私とは状況がまったくことなるのだ。端的に言ってしまえば、私はそれらの条件を何一つとして持っていなかった。自分の名前ですら仮称にすぎなかったことがある。

 それなのに、彼らは飢えを訴える。

 愛の飢え・知識の飢え。

 

 それは、私の心中にいまだ存在する未熟児の神経を逆なでするものだった。

 「なぜ私より恵まれた環境にいるのに、それを便利に使うことをしないのか」

 「なぜこの人たちは『言い訳』しかしないのか」

 

 つまりそれは簡易な憎悪であって、信念の表層にある「彼らを救いたい・寄り添いたい」という気持ちとは相反するものなのだ。私の宗派では妬み・憎しみという罪であり、贖いを求めるべき原罪のひとつである。

 

 薄々気づきながらもなるべくそれを「隠し」ながら、問題を抱える若者たちと触れてきた。だが露見すべきときに、露見するらしい。「あなたは私とは違う」と宣告される。巧みに隠せばそれを暴かれ、隠さずに話せば「自分とは区別すべき生き物」だと思われる。

 つまり、私は未だ自分の信念に能わず、未成熟児のままなのだ。

 

 外国人の友人たちは、何故か私の信念を「完全に」理解してくれる。ゆえに、第二言語でしか表現できない自分の考え方も育ってしまった。なぜ彼らはわかってくれるのだろうか? 彼らは史上、常に外敵との闘争や内紛に晒されてきたし、それは一個人のなかにも起こり続けてきたからであろうか。

 

 

 とにもかくにも、私は一度信念を捨てようと思う。

 自分の行動や精神を座敷牢に入れて、まだ色んなことを学び続けようと思う。

 

 おわり。