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Song-2-Song

読書感想文・メンタルヘルスについてのあれこれ等。「何者でもない」者の日々の憂い

嫌煙の風潮について

自省録

 先に述べておくが、私はライトスモーカーである。

 ライトと付け加えた理由は、喫煙のタイミングや場所に著しくこだわっており、常習化しているとは言えないからだ。実際、1ヶ月あたりの喫煙費は、千円にも満たない。

 

 煙草の人体への影響が発見され啓発されるようになってから、分煙化が進み、嫌煙家なる人々の声もいささか大きくなってきたように思える。スモーカー本人よりも受動喫煙者のほうが受害が大きいとの所見が出てから、喫煙者そのものを排除・あるいは考えを改めさせようとする動きまで出てきている。過激な嫌煙家の出現はとどまることを知らず、喫煙者を不可触民とみなす人も多いようだ。

 私は平成の初期生まれのものだが、「この短期間で、こんなにも世論は変わるものなのか」と驚きを禁じ得ない。

 

 煙草には古い歴史がある。

 (ここで筆者の知識に誤りがある可能性を記しておく)西洋の探検家がカフェイン飲料を発見するはるか前からそれは存在し、集中力の向上や陶酔の効果が認められ、多くの頭脳労働者・あるいは特権階級の者が嗜んだという。西洋による地球の発見以降も、ときに非常時には「煙草は通貨の代わりにすらなった」。かのアウシュビッツの体験記や、多くの獄中記などでそれは語られている。

 煙草は少なからず、鬱屈とした社会の中でひとときの緊張緩和を得るための限られた手段であった。ゆえに特権階級がそれを独占することも、あるいは貨幣社会が破綻している場所の人間らしい営みにも役に立ったのだ。

 

 いま「煙草が否定されつつある」のには、医学的見解の他に、明確な理由があると思う。

 人間の社会がより緊密になり、抑うつ気分に沈んだときの自己救済手段が矢継ぎ早に発見されていっているからだ。ときにはサルベージという手段であったり、あるカリスマ的人物の体験であったりする。

 人が生きるために、「ほんの5分ほどの間の緊張緩和」が必要なのは、数千年の間変わってはいない。ただ手段が多様化したがために、旧来の(しかも近代科学で悪の側面まで認められた)方法に依存する人種が淘汰の過程にあるのだ。

 しかし、煙草の真価もここで認められるべきだし、ただ闇雲に攻撃するのはいささか「人類の悪癖」とも思える。

 

 先にも述べたが、煙草は「長年効果を認められ続けてきた」という実績に真価がある。

 煙草を吸うという行動は、それそのものを意味深なワードとして使うことができる、すなわち疲労のジェスチャーになっている。

 銘柄を選ぶ・吸い方を選ぶ・吸うシーンは?

 その行動ひとつひとつに「人類が体験してきた歴史のなかで得た意味」が含まれている。

 今ある瞬間リフレッシュの方法のほとんどが、まだ歴史的に浅く、主観・客観ともに「その行動にどのような意識が潜んでいるのか」という裏付けが曖昧だ。対照してみると、スモーキングという行動には体験の再体験、自身の状態の伝達、そして歴史的に認められてきた本来の効果と様々なエッセンスが含まれているのだと思う。

 一般に嫌われている喫煙者の匂いや行動、あるいは携えている喫煙具に、私はそういった深みのある色を見つけてしまう。

 

 改めていうが、私はライトスモーカーだ。

 喫煙席が用意されていても、食事処では喫煙しない。カフェでは、専用の喫煙ルームが用意されている場所でしか吸わないし、香りケア用品を使用してから禁煙席に戻る。自宅ではベランダか窓の側で吸う。部屋は高層階にあるので、周囲の人に影響を与える心配はない。

 喫煙するほどでもなしと判断したときには、コーヒーで済ませる。

 

 新しい時代に適応するため、遺産を捨てる。そうするしか生き残れないのだ。

 それが私たちの悲しい性だと思う。