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読書感想文・メンタルヘルスについてのあれこれ等。「何者でもない」者の日々の憂い

或る新興宗教「元」信者の、回想録2

或る新興宗教「元」信者の回想録

随分と間が空きましたが、引き続き書きます。

 

<狂信>

 日没直後の薄暗がりの中だった。

 母はママチャリの後部に「私」を、前部に私の妹を乗せて、川べりを走っていた。道の脇に落下防止の柵があったが、いつ自転車が暴走して真っ逆さまに川に落ちるやらと内心独り言ちていた。

 

 「ご神体」の霊的な力は消費物で、定期的に「会館」へ持ち寄って交換しなければならないという決まりがあった。私たちはその道中で、例のモノは前かごに入っていた。

 母が言った。

 「ご神体があるから事故には遭わない。でも、これが川に落ちそうになったら、真っ先に(子供たちを)捨ててご神体を守る」

 女性の力で2人の子供を乗せて自転車を走らせるというのは、かなりの労力・集中力が必要であると考える。だが母は、先の発言をしながら振り返り、私を見てにやりとしていた。その時、私は自分の存在の全てを思い知った。

 

 信者としての格は、所有している神具の値段・宣教活動の熱心さで決まる。

 結婚してから改めて購入したらしい神具は、いずれも高価な部類であった。が、父である男の収入にも限りがあるわけで、誰よりも豪奢にとはいかない。そのことで、母は随分と父を責めたてたという。これが離婚事由のひとつだったと、彼の言である。

 そんなわけで、小地区と大地区それぞれの仕切り役・長老枠、そんな信者たちが「集会」にて主だった活動をしていた。信者の家庭の子供たちは集められ、彼らの前で祈りに励んだり、時には政治的活動に駆り出されることになっていた。

 「私」は、いわゆる教育ママという部類であった母によって、漢字の読み書きなどを含む早期教育を受けていた。暴力は日常茶飯事であったが、近隣の信者たちはどうやら黙殺していたようだ。母の教育も、私のためというよりは彼女の功名心のためであって、格の高い信者たちの前で教育成果を披露して褒められることにあった。少なくともそれは実現し、子供ながらに私も少々の満足を得ていたことは認める。

 成人した私が分析することだが、彼ら信者としての「信仰心のバロメーター」は、全て同門の他者との競争原理に投じられていたように考える。これ自体は至極単純で、旧教(キリスト教圏におけるカトリックという意味だけでなく、各国に広く勢力があり史実ともかかわりのある宗教のことをここでは指す)との明確な差なのであろう。

 競争心の扇動は、新興勢力の拡大にとって最も「手っ取り早い」方法に違いない。なかでも依存心の高い人々は、忠実な手先となって働くであろう…例えば、母のような。

 

 事実として母は、

 人前で私が如何に難読漢字を読んで見せても、

 毎日朝晩、数時間に及ぶ祈りを捧げてみせても、

 本来は大人が述べるべき政治的主張をしてみせても、

 信者間での「お使い」を上手くこなしてみせたとしても、

 ひとつとして満足しなかった。

 

 「あの信者さんの家の、あの子はもっとやれる」

 その指摘は延々と続き、母の私に対する常なる糾弾は、容姿・セクシュアリティにまで及んだ。結果として、私が自罰観に満ち溢れた・生気も目的もない人間になり、母の思い通りの人間になるために「人格がスプリットした」ことをここで述べておく。しかし、この話を掘り下げると本題から逸れるので、筋を戻す。

 

 ある日、私は「偉い信者さん」の家に一人残された。はっきりとは思い出せないが、母自身の仕事が長引いたこと・その信者が私への宗教的教育を施そうという申し出をしたことが、理由だったと思う。

 その家庭は中年夫婦で、子供たちとはすでに連絡すらとれないといった状況であった。今思えば、彼らは信者であるという義務から逃れたのであろう。

 夫婦のうち妻だけが「お菓子を買ってくる」といった理由で家を空けた。

 私は夫にいたずらをされた。

 

 全てが終わって自宅に帰った私は、黙することを固く決めていた。だが、母と共に風呂に入る習いがまだ残っていたのがまずかったらしい。風呂あがり、理由は特にないが激しく暴行を受けた。

 「信心しなさい、そうすれば男の人から守られる、そして男の人に気をつけなさい」

 …訳が分からない。

 狂信者の言うことは、本当に訳が分からない。

 

 

<宗教の性質とそれを取り巻く人々>

 縷々(るる)と母の狂信について述べてきたが、ここからは回顧も含めて、宗教としての態度や性質を記す。

 私の家庭では「口に入るものは汚いもの」と考えられ、読み古された広報をテーブル一面に敷いて食事をするのが習わしであった。文字教育のためのものではない「読みもの」を読み下したのは、それが初めてだと思う。

 その当時、「宗教」は旧教勢力に破門されたばかりであった。ある国でカルト指定を受けたのも同時期であったようだ。政治に一勢力は築いていたものの、宗教としての在り方は捨て鉢になっていたのであろう。

 広報の大半は社説のようなものであったり、大見出しは教祖の活動についてのものだったりした。他宗のように、教義的なことはほとんど書いていない。その代わり、いたるところで旧教勢力に対する罵詈雑言・恨み節を書いていた。事実や統計的資料は一切なく、「アホ」「バカ」などといった類(実際にはもっと文語的ではあったが)の極めてお下劣な言葉が並んでいる。私は子供ながらに「なんて品性がないんだろう」と思っていたが、意地悪な下心と子供特有の好奇心で読んでいた。

 …品性などと私が宣うのもおかしな話だ。家庭ではもっと汚い言葉が飛び交っていたのに。

 

 ともかく、旧教勢力と袂を分かつにあたって、天理教などに見られる地域密着・教義の安定性というバックボーンを失った「宗教」は、やけくそになっていた。韓国に時々現れる扇動政治家や、北朝鮮のような体制…他者批判による信者同士の結束へと舵を切っていたのは間違いない。政治にも深いかかわりを持っていた彼らは、同時期、熱心に大陸への勢力拡大もやっていたようだ。教祖が中国の政治家や思想家と面談したりする様子が丁寧に綴られていた。

 私のなかに「なにか、おかしい」という感情が根付いたのは、広報を読んでからであろう。子供ながらに、読物として間違っているという言語化できない考えを抱いていた。

 

 小学校に上がったころ、ある男児に突然後ろから殴られた。

 首根っこを掴まれてトイレまで連れていかれ、便器ブラシで何度も殴打された。体格的に全くかなわず、されるがままであったが、その少年の名札をみて思い出した。

 …母が日ごろ悪口を言っている「2軒むこうのAさんのところの子供」だ。

 

 自宅の近所はほぼ信者だったが、当然非信者もいた。彼らが外部から情報を仕入れて、私たちが「おかしな人々」であることを知っていたのは想像に難くない。Aさん一家は非信者であり、A奥様は非信者同士の井戸端会議をまとめる「ボス的存在」であった。母が明言しなかったがために、成人してから知ることになったが、要するに

 「おかしな宗教に入っているおかしな子供」ということで迫害されていたわけだ。

 

 私と同じように虐めを受ける同級生(信者)が多数いたようで、彼らのほとんどが状況を見かねて地域から離れていった。恐らく、宗教の態度がために、一時的に教祖の求心力がなくなる・信者が強い迫害を受け「身をひそめる」という事態が、全国的に起こっていたのだと思う。

 社会に出たとき、「信者」であることは何となく分かるけれども隠そうとする知り合いが多かった。もちろん、信者であること以外に社会的ステータスを持っている人は、隠す必要もない。私の幼年期とて、信者のなかでも地元の名士などは、そのまま地域に残り続けていた。

 

 

<「私」の行方と改宗の誓い>

 非信者の通報により児童相談所に一時保護された私は、その後ますます孤立を深めることになった。(恐らく)9歳の頃に母のもとへと帰ってきたが、母は迫害を恐れて私を自宅から出さなくなった。学校教育の代わりとして、数十万円の通信講座に申し込みをして私に学ばせた。…「迫害を恐れて」の部分は後に知ったことである。

 彼女は職を辞しており、明確な精神錯乱の症状が見られた。日がな一日、私の校区にある小学校に電話をかけて、ありもしない事実についてクレームを言っている。と思えば、信者仲間について

 「我が家は金こそないけれども、彼らよりは家柄がよい。一線を画している」

 などと言う。

 彼女は依存の対象をすべて失いつつあったのだ。

 夫。

 金。

 私の母への忠誠心に対する懐疑。

 …信仰への懐疑。

 

 最後のものが決定打になったのだと思う。だが、母の功名心だけは失われなかった。

 

 中学校入学まで僅か2年といったところで、母は私に「とある仏教系の進学校」に入学するように"命令した"。もはや母には生活力はなく、銀行の口座の取扱・買い物・掃除・その他あらゆる家事を私がするようになっていた。こういった環境下で受験勉強をする時間などなかったが、私には或るアドバンテージがあった。

 

 当時の私は、買い物の帰り、街の書店で立ち読みをするのが趣味であった。母が購入した高額な通信教育の教材には全く興味がわかず、母はクレーム電話に夢中だったので上手くサボることができた。その代わりに、書店で好きなだけ本を読む。

 本を買いたいと申し出ると、私をインテリに仕立て上げることが出来るかもしれないという期待から、母は快諾した。とはいえ、家計は逼迫しており、渡された額は微々たるものであった。

 選書を慎重に行い、特別手元に残したい本は買う。それ以外は、足がパンパンになるまで立ち読みをする。…児童文学などから始まり、それに満足できなくなった私は、大人向けの書籍コーナーで小説や史書を読み漁るのが常となっていた。

 

 そういった経緯があり、受験にあたって文系の科目については然程苦労しなかった。まあ大丈夫だろうという予想を立てたのも、書店に並んでいる過去問を立ち読みで解いたからである。

 心配なのは数学であった。あれは筆記しないと身につかない。学生時代は、一貫して苦労し続けた。

 

 …私はその朝、鳥居をくぐった。

 教義において固く禁じられたことを破ったのだ。そうしなければ試験会場には着かない。けれども自分の心を止めておくものは何もなかった。全ては母のためであり、信仰も母に捧げていたと言っても過言ではなかった。

 

 学校には2種類の学部がある。志望し受験したのは、旧帝国大学への進学率が極めて高いコースであったが、難なく合格することができた。学校の入学費免除も受けられる順位だったので、私にしてはよくやったと思う。母は大喜びをした。

 が、その噂を早速聞きつけた近所の信者・長老・地区長達は、私のそばを通るたびに言った…

 

 「おかあさんのように、地獄に落ちる」

 

 私は何もかもを見下すようになっていた。馬鹿馬鹿しい、地獄などあるものか。信者たちに話しかけられても徹底的に無視をし、小走りに去った。奨学金の申請をするときなどは、誇らしい気持ちでいた。だが、この段階では「信者でなくなる」という発想をまだ抱いてはいなかった。

 

 学校は厳しいところであった。

 入学早々、すでにクラスメイト同士のグループがいくつか出来上がっている。進学塾の同門同士で組んでいるようで、私は仲間はずれであった。

 また、進学塾では、義務教育だと中学初歩となる教育も先取りするらしい。学校側もそれを踏まえたカリキュラムを組んでおり、ついていくのも一苦労であった。文系科目は過剰と言ってもいい知識があったので何とかなったが、理系科目はかじりつくように授業を聞いていた。

 

 孤立した私が向かう先は、学校では図書室か教員室・家ではインターネットであった。ネットの意見を見ると、随分と宗教批判がされている。影響されやすい年頃ではあるものの、まだそれは改宗の意思にはつながらなかった。

 

 進学校にはしばしばあるらしいが、神学・マナーなどの講義は、授業が急遽自習となったときに行われる。我が校は仏教校だったので、僧侶の資格をもつ教師がそういったものを担当したが、生徒の間では一貫して「自習時間」と呼ばれていた…生徒たちが何をする時間なのかは、言うまでもない。

 「自習時間」の教師であるK先生は、文字通り破戒僧であった。

 生徒が聞いていないのをいいことに、コーランだの聖書だの、他宗のプリントを配ったり読み上げたりする。揚げ句は

 「カント思想について原稿用紙1枚程度で感想を書け」

 などと言い出す。当然、誰もやらない。

 

 だが私は強い興味を持った…思春期まっさかりで、本の虫どころかカビと化していたのだから仕方がない。K先生の後をついて回り、図書室にいるK先生のそばにさりげなく座るようになった。

 K先生とよく話すようになった。

 先生は早口で、おたく気質だった…成人した今なら、先生と有意義な会話ができたかもしれない。英語を解さない人は世界中の本の九割は読めない・ラテン語ギリシア語はインテリの基本教養だと教えてもらったのは、この先生が初めてだ。

 

 ここで一冊の本を紹介する。

 「ブッダの真理のことば 感興のことば」―岩波文庫

 

 手擦れし黄ばんではいたが、皺もヨレもない美しい本であった。岩波文庫が美しいと強烈に感じた体験である。有名なアニメ「攻殻機動隊」シリーズでも取り上げられているので、是非読んでほしいと思う。

 

 K先生は「君にやる」と言った。

 私は、母に見つかるのを恐れて、自宅でこっそりと読んだ。

 

 なんども本をめくるうちに、やっと私は本来の信仰というものを知った。

 信仰とは耐え忍び、依らず、ただひたすら前進するものだ。

 

 進学校の同級生たちのことを話すと「外国人・被差別部落民の苗字」と母はこき下ろし、私がいかに素晴らしいかをまくし立てる。

 自分は「信者」たちのなかでは蔑視されているが、私を通じて社会的ステータスを手に入れた!これで胸を張って信者仲間に入れる!

 

 …本当に、狂信者とはわからない。

 私は決意した。

 母とともに改宗する、そのためにはどんな悪事にも手を染める、と。

 この後述べることは、私の罪の全てである。

 

 ―続